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私の大好きなお父さん

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どんな父だったか

私の大好きなパパ、今日は彼について書いて見ます。

なぜパパと呼んでいるかと言うと、台湾では中国語で父の事を爸爸→パパに近い発音で呼ぶから、

それでパパと呼んでいた、お父さんなって呼んだことなかった。

父は昭和20年生まれ、終戦の年に生まれた。

祖父祖母は東京の人だったけど、戦争で富山に疎開していたみたい。

父が生まれた日、産婆さんを呼んだけど、まだ大丈夫だと言われ、産婆さんが帰った後にポン

と生まれたらしい、昔の女性は強いと思う。

どんな子供だったかは知る由もないけど、写真の中の父は八重歯がとってもかわいい父だった。

父はよく酔っぱらって来ると私に、富山なのかお寺にいた時の話をしてくれた。

亡くなった人が女性だったら勝手口、男性だったら玄関に挨拶に来るとか。

私はお化けなんて信じたくないし、でも父は酔っぱらうと決まって私に怖い話をして、「では、お休みなさい」と部屋のドアを閉めかけて、決まって私は「ドア閉めないで!」と怖がる。

まだ日本にいたころの記憶をたどると、私達兄妹を寝かしつけるのに、絵本を読んでくれてた、優しいパパだった。

父はきっととてもやさしい声で本を読んでくれていたと思う。

父がして来たお仕事

父は農芸高校を卒業すると、銀行に就職したようだ、でもあまり長くは勤めなかったからしい。

その後は記者になったとのこと、よく怒られたと言っていた、作文を書くんじゃないと。

私の元には今も父が使っていたであろう大きなカメラがある、とっくに壊れているけど、捨てがたい。

いつの話かは覚えていないけど、自分で会社を経営していた時期をあったが、あえなく失敗したようだ。

それから自営業でコピーライターなど、パンフレットの広告のキャッチフレーズを考えたり、しかしそれでも食べていくのが大変になり、警備員をしていた時期もあった、夏は真っ黒に焼けて、汗水たらして頑張っていた。

その後警備員のお仕事がなくなると同時に、ある方の紹介で就職できた。そこで退職まで勤めて、あとは嘱託?で通ったが、

大腸がんですべてが一変した。

それは2014年頃だったか?はっきりと覚えていないが、大腸がんステージ4と宣告された。手術をして元気になったと思ったけど、手術から約5年後の2019年に大腸がん再発し、転移し、2019年12月にこの世を去った。

父の趣味

父にはいろいろな趣味があった、生涯物書きであった、時代小説や童話を書いたり、剣道、カラオケ、ギターも好きだった。

夕暮れ時になると父は決まってギターを練習していた。ある日私は父に聞いた、「まだまだ弾けない曲あるの?」父は言った「もちろん、パパなんてまだまだ弾けない曲ばっかりだよ」と。

父が高校生の時にギター留学でスペインに行く話があったみたいだが、おそらくその頃おじいちゃんが亡くなって、その話もなくなったようだ。

父はフラメンコなどクラシックばかりを弾いていた。

小説では同人誌などの会にも入ってて、何度も作品をどこかへ出していたが、いいところまでは行くけど、賞を取ることはできなかった。

父の部屋はとにかく本がいっぱいあって、その中で寝ていた。狭い家だったけど、うちはまるで小さな図書館のようだった。

私は父にそっくりな顔をしていて、ちょっと恥ずかしいと思うけど、間違えなくこの人の子だと安心していた。

しおり

大好きだった父を思い出すと今でも悲しくなる。

もっと一緒にいたかった、もっと生きていて欲しかった、もっと今頑張っている私を褒めて欲しかった。

もっと私の作った料理を食べて欲しかった。

もっと父が作った衛生面はあまりよろしくないであろう白菜漬けやらっきょ漬け、油でべたべたのチャーハンを食べたかった(笑)

パパ、ありがとう。また来世もあなたの子に生まれたい。

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