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媽媽(ママ)

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母と暮らした日々

私が5歳の頃から台湾に渡って、しばらくはおばあちゃんと一緒に暮らしていたけど、少ししてから高雄(カォション)というところで母と暮らせるようになった。

高雄は台湾の第二都市と言われていて、結構都会だ。

母と暮らせるようになってからも、母は働きに行かないとならないため、小学校へ私は昼間行って、終わって家に帰ると誰もいない、私は鍵っ子だった。とても寂しい日々だった。

学校では高学年になるまで、結構いじめに遭っていたから。

「日本負け犬、日本へ帰れ!」みたいな言葉を子供たちは私に投げかけた、アパートの玄関ドアに落書きされたり、昔日本が無理やり統治していたことを親から聞かされていた子供たちが私をいじめる。

私は半分台湾の血が流れているのに、顔は日本人だったから、壮絶ないじめに遭った。鬼ごっごだっていつも私が鬼で、みんなしてどこかへ消えていなくなったり、女の子に貸した本を返してと言ったら、思いっきりその本で頭を叩かれたり。

台湾は親日親日と言うけど、正直私はそれを感じなかった。

母はとにかく教育に厳しかった、母の子供の頃はとても貧しかったらしく、小学校しか行けなったという。

のちに私が小学校を卒業したときにも、仲良くしていた友達も貧しさゆえに小学校を卒業してもう働かなければならない子がいたほど、ほんの約40年前までは。

大変な日々だったけど、もう二度と戻れない日々を今は愛おしく思う今日この頃。

ある日

私が小学4年生くらいだったか、ある日私はおばあちゃんと留守番していて、ふと私がおばあちゃんに「ママは?」と聞くと、おばあちゃんは「ママは結婚式」と答えた、

そう、私に新しい父親ができた。母はまだ若かったし、女で一つで私を育てることは大変だったと思う。

またがらっと生活が変わり、私には弟ができた、11歳も年が離れた。弟を初めて見たとき「猿だ!」と思った。(笑)

そこから私は1人で飛行機に乗って日本に一時帰国するようになった、本格的に帰国するまで3~4回位かな?

それで今でもどこか知らないところへ行くのも怖気つかず、楽しむようになり、今でも大の旅行好きになった。

弟は本当にかわいかった、おしめ、ミルク、お風呂、遊び相手をしたっけ、本人は覚えていないのが残念。

しおり

今日は母との思い出を、タンスの引き出しから引っ張り出してみた、懐かしくもあり、つらい記憶でもあり、まだまだタンスには沢山の思い出が入っている、徐々にこれから書いて行こう。

わんわん!私のお母さんはどんなお母さんだったかな??

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