
神童と言われた幼少期
自分で言うのもなんだかなぁですが、かつては神童と言われていた。
台湾に着いて、学校に上がるまで、私は必至で言葉を覚えたと思う、日本語なんて忘れてやると言っていたらしい。そこで生きていくしかないから、こどもながらに必死だったと思う。
小学校へ上がるのはかなり遅くなった、なぜなら私には滞在資格がなかったからだ。
両親は協議離婚し、親権は父にあったが、私は母と一緒に台湾へ渡った。
父は1人では二人の子供を見られなかったらしい。
この出来事は本当に大きかった、ずっと今でも私達兄妹の絆と兄と母との絆に影響している気がしてならない。
観光ビザで少し台湾にいては、罰金を払って日本に一時帰国しての繰り返し。何度飛行機に乗ったことか。
小学校は現地の学校に行った、知り合いのコネで特別入れた。その時8歳位になっていたかと。(多分)
台湾の学校は9月が新学期、日本とは違う。
遅れて入学したから、勉強についていけるよう、担任の先生「黄」先生と結構年配の女性の先生だった。黄先生はわざわざ自宅に来てくれて、補習をしてくれてた。私の初めての台湾での先生。
黄先生は私に厳しく、ちょっと宿題を忘れると、母の店(コーヒーショップを経営していた)に電話が行き、母は原付に乗ってすっ飛んで帰って来て、私を𠮟りつけるためだ。
それほど母は教育に厳しかった。
それで今でも私はバイクの音が苦手になったかもしれない。
あの時の恐怖がフラッシュバックするから…。
100点満点
5年生頃になるとどの教科もほぼ100点を取るようになった。
放課後は補習にも行ってたけど、とにかく母を喜ばせたかったのもあるけど、私は勉強が大好きだった。いつも表彰状をもらっていた。(永久保存しておけばよかった)
スポーツもできて、勉強もできて、作文も褒められて、きれいな字と模範にもなったりした。
そんな小学校時代を過ごした。
もちろんかわいいおなごだったことは言うまでもない。
しおり
優等生として過ごした小学校時代、そこから帰国してからの転落人生はまた次の機会にお話しをしましょう。ではでは。

